- どういう計画だったのか
- なぜ作られなかったのか
- なぜ廃止になったのか
それぞれ調べてみました。
廃線になったのは大森支線です。
京急の未成線「武山線」はどんな計画?戦争が後押ししたが、戦争が原因で消えたよく分からん路線
引用:Google Map
この路線を作る目的は、帝国陸軍の施設があったから。
なんらかの交通手段が必要となり、国家プロジェクトになりました。
武山線の計画内容
引用:Google Map
多分、こんな感じ。
元々は三浦半島の西部線の支線として計画された路線でした。だけど
しかも三浦半島の西部は今よりもだいぶと田舎で、採算が取れない見込みでした。
儲からない路線は作るわけにゃいかないので、一旦計画は消えました。
1931年には逸見駅~林地区を結ぶ「横須賀軌道」が申請されましたが、バス路線があるからいらんでしょ、と国から蹴られてます。
一転、国から作れと言われた
1941年に大東亜戦争が始まり、三浦半島は軍事拠点として重要な場所となりました。
そこで横須賀市林地区にも帝国陸軍の施設や駐屯地が開設され、そこへ行くための交通手段を作れ・・・という話になりました。
ただ、JR横須賀線の延伸は1944年4月1日に完成。
横須賀~久里浜が繋がりました。
儲からんのは確かだけど、国からの命令なら・・・としゃーなしで工事が始まります。
資材不足と終戦で計画がパーに
もちろん資材が足りるわけがなく。
しかもこの時の会社、いわゆる大東急は関東ほとんどの私鉄をまとめていて、あっちこっちの復旧に人員と資材を裂いてました。
もちろん、終戦後もそんな新線計画はさておいて、まず持っている路線の復旧が先です。
そんな状況だったので、完全に武山線の計画は後回しになりました。
武山線はほとんど手付かずで、トンネルくらいしか作られてません。
引用:Google Map
現在では計画のルートに神奈川県道26号線があります。
参考:京急バスの「ドル箱路線」、かつては鉄道の計画も 「京急武山線」なぜ実現しなかった?
武山線の再整備計画は?
100%なし。
確かに計画ルートの人口は今結構ありますが、すでに路線バスを通しているので、特に必要がありません。
ましてや今更になって新線を作るとなると、相当なお金がかかります。
そもそも免許が失効しているので、作ろうにも無理です。
個人的に謎だったのは、免許を持っていたのは京急ですが、衣笠駅から延ばすならなぜ国鉄にやらせなかったのか・・・
正直、あの時期は軍の命令=治外法権みたいなもんなので、免許を国鉄に渡して作らせてりゃ、横須賀線の支線としてできてたかもしれませんね。
京急の壮大な計画、三浦半島を周回する路線「西部線」と久里浜線の延伸計画が無くなった理由
最初の合併前に路線の南部を作っていた湘南電気鉄道は、三浦半島を一周する路線などを計画してました。
もう1つ、京急合併後に浮上した久里浜線の三崎港延伸計画もありました。
ですが、これどちらも計画が消えてしまいました。
三浦半島、周回計画
引用:Google Map
ざっくりと、こんな感じ
久里浜線から分岐して鎌倉まで。
ですが、この計画は夢物語。
三浦半島の西部は今よりもだいぶと田舎で、費用対利益が見込めないと判断したのでしょう。
西部線の計画は白紙になりました。
参考:当社久里浜線延伸区間[三崎口~油壺(仮称)間]の免許一旦取下げについて
久里浜線の延伸計画
三浦半島南部の開発も同時にやって、観光地にして自社路線で人を運ぶという戦略ですね。だけど・・・
本来は三崎港あたりまで延ばす予定だったんですけど、買収が難しいということで計画を短縮しました。
最終目的地を三崎港→油壷へ変更。
引用:Google Map
京急油壺マリンパークが開館
京急が作った水族館です。
他にもゴルフ場を作ったり・・・観光開発をする予定だったんですけど
神奈川県が計画路線上の地域を、自然のまま残すべき所と指定してしまいました。
三崎口~油壷は運輸政策審議会答申第18号にて、2015年までに開業するのがよくね?
なんて言われてましたけど
このため一度、三崎口~油壷の延伸を諦めました。
延伸計画は大規模な宅地開発もセットだったんで、場合によってはワンチャンあったんですが・・・
ということで住宅地開発が凍結。
セットになっていた延伸計画も、事実上の白紙となってしまいました。
葉山などの三浦半島西部や、南部は車でないと周れないので不便だという声があり、地元住民や観光客からは、ため息が出たらしい。
参考:成田新幹線に“第二山手線”!? 実現してほしかった未成線ランキング 関東編
京急の廃止路線、大森支線。併用軌道の時代にあった幻の支線
引用:Google Map
京急の元祖、大師電気鉄道は大師線を作った後、川崎から東京方面への延伸を行いました。
その時も今のような鉄道専用線ではなく、併用軌道・・・路面電車で作ってました。
その途中、暫定的に大森海岸駅あたりからカーブし、JRの大森駅に接続してました。
大森支線
なんとか品川まで延伸したあとは、大森支線として運用されてました。
大森海岸より北側ができる前は、川崎側から入れるように。
品川延伸後は、品川側から入れるよう線路が付け替えられました。
引用:Google Map
路面電車は片方にしか運転台が無いものもあり、終点で方向転換するか、ループ線を通って折り返してゆきます。
大森支線がなくなった理由
道路の改良事業として、大森支線をぶっ壊して道路の拡幅工事を行う事になりました。
この工事がなくとも、そのうち廃止になってたでしょうね。
大森支線は廃止になったあと、道路に転用されたんで、現在でも線路の形状がなんとなく分かります。
引用:Google Map
さっきのループ線しかり、大森海岸駅あたりも品川方向からの接続線っぽいラインがこれ
遺構は他にまともに残ってませんが
モニュメントとして当時の車両の浮彫り彫刻が歩道上に埋められているらしい。
NTT大森バス停付近の交差点付近にあるので、探してみて。
参考:大森駅跡
まとめ:京急の未成線・廃止線にはそれぞれ大人の事情があった
引用:Google Map
武山線は戦争で後押しされかけましたが、時期が悪くて作られませんでした。
戦争後は、戦争の復旧にリソースが使われて、それどころじゃなかったみたい。
久里浜線の延伸は、用地買収が困難だったこと。
延伸ルート上が環境保護に指定された事で難しくなりました。
廃線になった大森支線は、品川延伸でそのうち無くなるだろうって所、道路の拡張工事でぶち壊されました。
武山線はトンネルが。
大森支線は道路として形状が残り、説明版が設置されたり、浮き掘り彫刻が埋め込まれてます。
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